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浪江町の歴史1(古代から昭和中期)

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年5月12日更新

古代から中世

現在の浪江町の東部、高瀬川と室原川の2河川による河岸段丘の台地上には、古くから文明の形跡が確認できます。町内にある順礼堂遺跡・七社宮遺跡・植畑遺跡・大平山貝塚・清水遺跡・中平遺跡などは、縄文時代の遺跡であり、その出土品の中には、全国的に見ても当遺跡にしか見られない独自のものが確認されています。

当地には、これら画期的な縄文文化の延長線上にある独自の弥生文化が展開されていたことは、町内に少なくとも13か所以上存在する遺跡の内容からみて明らかです。

古墳時代(西暦300年頃から600年頃)となると、この河岸段丘の両岸一帯に、前方後円墳、後方墳、円墳、方墳など多様な古墳が次々と建設され、その周辺には、大規模な集落が多数あったことが証明されています。その数は、近隣の他地方に比して類を見ないほど多いと言わざるをえません。

この時期と同時代と考えられる第13代成務天皇の御世に、足彦命(たらしひこのみこと)が、染羽国造(しめはのくにのみやつこ)に任じられ、現在の浪江町、双葉町一帯から、大和朝廷の威光を示していました。この「染羽」という地名が、8世紀頃になって「標葉」に変更されたと言われています。いずれにしても、この国造と数多い古墳群の存在は、当地が古代における政治・文化の中心地であったことを物語っています。

一方、浪江町民の心のよりどころとなってきた苕野(くさの)神社(請戸地区)は、和銅年間(715年頃)に社殿が建立されたものです。貞観の津波(869年頃)、慶長の津波(1611年)他で海没するなど様々な災害に遭いながら遷宮し、さらに月日を経て、再び東日本大震災に見舞われることとなりました。

標葉の祖

この苕野神社を氏神として尊信していた標葉氏の初代、標葉四郎隆義は、平安末期の保元年中(1159年頃)、現在の浪江町・請戸大平山にあたる場所に館を築き、一帯の統治を始めました(「東奥標葉記」による)。その父とされる海東小太郎成衡は、いまだ謎に満ちた人物と言われています。

有名な「後三年の役」(1083から1087年)は、この成衡の婚儀の日に起こった事件を機に勃発しました。最近の資料研究によると、成衡は「後三年の役」終結後に下野国へ移住しましたが、追っ手によって討たれたということです。つまり成衡は、1087年からほどなく死亡していたわけで、そうなると約70年後の保元年中(1159年頃)に成衡の四男、標葉四郎隆義が請戸大平山で統治を開始した、という従来の説は成り立ちません。成衡の子であること、あるいは保元年中に統治を開始したこと、いずれかが疑わしいことになります。

しかし最近発見された1170年頃と推定される資料(科学的年輪測定法による)の中には、間違いなく「海東四郎」の名があります。ともかく、保元年中頃において海東小太郎成衡の末裔一族が存在していたことは明らかであり、その確実な系譜については今後詳らかにしていかなければなりません。

中世から近世

元享3年(1323年)頃、平将門の子孫と称する相馬氏が、標葉氏の領土に北接する行方郡(現在の南相馬市周辺)へ下向します。以来160年以上にわたり標葉と相馬の間で抗争が繰り返され、明応元年(1492年)、ついに標葉の権現堂城は落城しました。

14世紀半ば、二つの朝廷が正統性を主張して争った南北朝動乱では、標葉氏は当初、霊山におわしました義良親王(後の南朝・後村上天皇)、北畠顕家に従い、全国を転戦していたとされます。この時期、現在の浪江にあたる地域に後醍醐天皇の私有地である荘園が存在していたことが、文献の中で確認されております。さらに当地には、応仁の乱の西軍(山名宗全派)に擁せられた南朝の帝の末裔・信雅王の鎮座伝説など、南朝にまつわる伝説が数多く残されています。

近世から幕末

当地が中央の歴史の舞台に再び現れるのは、慶長5年(1600年)6月、関ケ原合戦の3か月前のこと。このころ当地は、相馬氏の統治下にありました。石田三成が上杉景勝とともに徳川家康の挟み撃ちを目論んでいたところ、家康は、先手を制して背後から景勝をけん制するため、伊達政宗に命じて急いで浜街道を北上させました。その途上、政宗は相馬氏の領地を通ります。伊達と相馬は永年の敵対関係にありましたが、相馬氏は、現在の浪江町川添の華光院(現在の正西寺)において政宗を饗応し、無事に領内を通しました。「政宗ほどの武将が永年の恨みを捨てて殿を頼んで頭を下げているのに、それを討つのは勇者の道ではない。今回は領内を無事に通し、再び戦場において勝負を決することこそ弓矢の道である」とした家臣の意見を採用したのです。これも、相馬家にとって歴史に残る英断でありました。これによって、有名な小山評定での諸大名の動向、上杉包囲網の完成など、天下の趨勢は、一気に徳川に傾いたのでした。

このこともあってか、相馬氏は徳川幕府のもとで本領安堵の復活折衝に成功し、明治維新を経てその後も存続しています。鎌倉時代以降明治維新まで、国替えなく統治を継続した大名としては、九州の島津氏、相良氏、東北の南部氏、そして相馬氏のみであります。

江戸時代、現在の浪江町権現堂地区は「高野宿」とよばれ、東西に細長い町並みでした(現在の本町および本城周辺)。安政6年(1859年)、西からの強風にあおられた大火災が発生し、高野宿はほぼ全焼。翌年の万延元年(1860年)、町並みは抜本的に変更され、南北に長い新町通りの建設が、防火思想を結集して開始されました。まもなく、この経験を後世に受け継ぐための「裸参り」と呼ばれる火防祈祷祭が始まり、その伝統は現代にも継承されています。

なお、「高野宿」に代わり「浪江」という名称が定着するのは、この大火の頃からと言われていますが、それ以前の寛政年間からという伝えもあり、諸説わかれています。

江戸末期の二宮尊徳による精神改革・経済改革は、尊徳自身は当地を一度も訪れていないにもかかわらず、東日本各藩の中で相馬藩が最も成功したと言われています。それは藩主相馬充胤自ら率先して実践したからだけでなく、尊徳の娘婿で片腕でもあった富田高慶の存在が大きいと伝えられています。弘化4年(1847年)の高瀬村を皮切りに明治初期まで続いたこの改革で、積小為大、分度と推譲、道徳と経済といった思想は、当時の荒んだ浪江の村々に劇的な変革をもたらしました。現代の浪江町民の生活哲学の中にも、この報徳思想の影響は強く残っており、生きる規範となっていると言えるでしょう。

幕末から戊辰戦争

このような努力を重ねた相馬藩でしたが、幕末の急激な時代の変遷には乗り切れませんでした。慶応3年(1867年)末、王政復古の大号令の前夜、全国諸大名が京都に召集を受けた際、相馬藩主の名代として上洛した錦織晩香は「いったい何がおこっているのか」と国元に手紙を送っています。それほど世の中は混沌とし、変革は急激だったのでした。

奥州各藩は図らずも明治新政府軍と戦うことなり、相馬藩も慶応4年(1868年)7月29日、高瀬川において新政府軍と激突しました。標葉の武者を含む相馬藩軍は、奇襲戦法も奏功して大勝を収め、新政府軍はいったん撤退。しかし兵力の差は歴然としていたため、また単なる仙台藩の盾となることへの虚無感もあってか、その5日後には、立野村のとある農家で和議を申し込むこととなったのです。

明治初期

このような幕末・維新の経過から、東北一帯を鎮撫する目的もあって、明治初期に相次いで天皇の東北地方の行幸が行われました。その中で新政府高官と接触する機会を得ることにより、発展の礎を築いた地域もありました。一方、新政府の政策に組み入れられなかった全国各地の士族の反乱が続きましたが、それが終息すると、そのエネルギーは「自由民権運動」という形に変貌していきました。

こうした時代背景の中で、浪江町も自由民権の志士を数多く輩出しました。「自由や自由や、我汝と死せん」と詠い、生涯を自由民権運動に捧げた苅宿仲衛(1854-1907苅野村出身)のほか、福島自由党の結成に関わり、のち「福島事件」で河野広中らとともに投獄され、その後衆議院議員となる愛沢寧堅(1849-1929高瀬村出身)などが有名です。愛沢はまた、相馬事件と呼ばれるお家騒動に端を発した政治問題で、当地方の汚名挽回に奔走したことでも知られています。日本の国家が明治という時代をかけて速成した民主主義は、実際には名ばかりのものでした。自由民権運動を通して真のデモクラシーを実現していく過程においては、浪江の祖先たちも含む多く人々が血と汗を流したことを、私たちは忘れてはならないでしょう。

明治後期

明治22年、町村制施行が施行され、浪江村・請戸村・幾世橋村・大堀村・苅野村・津島村の6か村が誕生します。明治31年、その浪江村にできたのが鉄道・常磐線の浪江駅でした。明治5年(1872年)に新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通してから33年。福島県の太平洋側を走る常磐線の全線開通は、明治38年(1905年)のことです。

当時は鉄道敷設にも反対の声があり、開業の前年には、浪江町内の出羽神社に立てこもった反対派が、「馬方運送が失業する」「汽車の煙で肺病になる」などといって気勢を上げていたといいます。今となっては滑稽に感じる光景かもしれませんが、新しい技術に対して不安と抵抗があるのは、現代も含めていつの時代も同じということでしょう。

ちなみに、鉄道と並んで走る常磐自動車道は、昭和56年(1981年)の一部開通から30年が経った東日本大震災当時も、福島県内の一部の区間でいまだ建設中の状態でした。震災後に建設が再開され、平成27年(2015年)3月、とうとう全線が開通することになりました。日本初の都市間高速道路・名神自動車道の一部開通(1963年)から遅れること、実に52年。鉄道と比べてずいぶん時間がかかったものです。その差は単に、富国強兵・殖産興業にまい進した明治期の日本と、平成の失われた20年に象徴される閉塞した現代日本との違いだけが原因なのか、あるいは他の理由があるのか、興味深いところです。

大正から昭和中期

文明開化の恩恵が浪江に到達するには、明治も末まで待たねばなりませんでしたが、まもなく大正期に入ると、日本の隅々まで世界の政情や経済動向と無関係ではいられなくなりました。大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦により日本経済は活況を呈し、その波は浪江にも訪れました。大正7年に発刊された「現今の浪江町」を見ると、東日本大震災まで存続していた多数の商店の広告が、豊富に掲載されていることに驚かされます。行政経済各般において、町内の組織体制が整ったのもこの頃でしたが、間もなく戦後恐慌が日本を襲います。そして関東大震災、世界金融恐慌と、天変地異と世界情勢の荒波にもまれながら、日本は太平洋戦争へと突入していくのでした。

昭和7年の浪江町航空写真

(写真:昭和7年の浪江町航空写真)

戦時中の浪江は疎開先となり、今では全国的に名を知られるようになった方々も多数、当地で耐乏生活を送られました。その回想録などには、受け入れた浪江の対応があまりに粗野だったと言わざるを得ない記述も見受けられます。それだけ当時の浪江の先祖は貧しく、自分の生活で精一杯だったのかもしれません。しかし、東日本大震災のとき全国津々浦々で浪江町民が賜った厚情を思い起こせば、歴史から学んで大いに反省すべきものがあると言えるでしょう。

さて、戦後間もない昭和28年、町村合併促進法により、浪江町は請戸村・幾世橋村と合併しました。次いで昭和31年5月1日をもって大堀村・苅野村・津島村と合併し、現在の浪江町が誕生したのです。

合併当時の広報誌

▽浪江町の歴史2(現代から東日本大震災以前)はこちら

▽浪江町の歴史3(東日本大震災後から一部避難指示解除)はこちら

▽浪江町の歴史4(復興創生期)はこちら